ScrapBook

鳥籠が鳥を探しに行く。

RSS
Oct 9

Oct 9

Oct 9

Oct 9

Oct 9

Oct 2

Oct 2

Oct 1

Oct 1

19世紀末の二つの表象形式、幽霊とヒステリーは、いくつかの類似した形式性を帯びている。実在性(実体性)と科学的証明と視覚メディアの必然的結びつき、潜伏をはさんでの回帰、性的な機能の排除、存在—非存在の二元論に依拠していること、こうした点を挙げることができる。

 ところが、現在に至るまでにヒステリーは、消滅している。これに対応して、幽霊も消滅してしまっているかもしれない。論者は、そのひとつの要因として視覚メディアの発達を仮説的に据えてみる。一世紀前には有効であった、視ることの二重性、つまり、対象における見えるものと見えないものの分裂、主体における見る主体と盲目の主体との分裂が、実は「視ることの真実」を支えていた。しかし、視覚メディアの展開はこうした視ることの地位をずらしてしまった。直接に視ることよりも間接的な映像のフレームを通してみることが視ることのリアリティを感受するには必要となる。いや、こういったほうがよい。直接性と間接性という区別はもはや無効になり、フレームが複数並置され、フレームごとにリアリティがそのつど生じている、これが「視覚の複数フレーム性」である。さらに言えばそこでは、フレームそのものが欲望されているのかもしれない。フレームの切り替わりにリアリティの根拠が求められており、その切り替えの瞬間にこそフレーム自体が明瞭になるからである。

 幽霊とヒステリーという先の二つの表象が衰弱したのは、こうした変容の効果ではないのか。

 ただし、ヒステリーが消滅した後に生じた多重人格ブーム、自己同一性のフレームの複数性とそのめまぐるしい切り替えへの欲望の高まりを念頭におけば、衰弱し消滅したといわれる幽霊が現在どのようなものへと移行しているか推測することができる。おそらく、幽霊の消滅以後に起きたのは、フレームの切り替えによる心霊映像作品の流行である。Jホラーの古典といわれる、フレーム切り替えの技巧を凝らした『女優霊』や『リング』の怖さもここにある。

 この論を参照すれば、のろいのビデオにそうした工夫が随所に散りばめられている理由もよく分かる。その構造をフレーム性から考えれば、心霊映像が怖いのはその向う側の見えないのろいやたたりの怖さではなく、複数の表層上に並置された欲望のフレームの瞬時の切り替わりや乗り越えにあるということになる。


Oct 1

つまり、『デカローグ』『偶然』のように「観客のみが知りうる人のすれ違い」を構成するために、時間軸を切断し、相互に交差するように断片を前後させるということのようだ。たしかに、登場人物たちは微妙にすれ違いを見せる。たとえば『呪怨2』では恵と朋香、京子と千春など。で、上掲書右上の呪怨年表を参考に時系列をまとめている。構成は次のようになっている(数字は時間順)。

・京子 3

・朋香 1

・恵  2

・圭介 4

・千春 (3の一部)

・伽耶子5

もちろん、ホラーならば時系列をいじると、後の怖さの山場がすでに認知済みのはず。だが、それが微妙にずらされぼかされる。たしかに反復して霊の登場の山場を見るのだが、かえって怖さが増していく。これが特徴的かもしれない。

 また、エピソードひとつのなかでも、時間の順序がループしてつながっている(「朋香」、「千春」の章)こと、今ないものが今あるようなショットがあること(「圭介」の章の京子の母)、これも、前後の挿話内で比較的時系列の順序にくみたてられたシーンの合間にはさまれる。先の「朋香」「千春」のシーン、これらは短編として取り出しても見れてしまう構成かもしれない。


Sep 24

Sep 24

Sep 4

Sep 4

Sep 4
“[過去記事『「体を自分として認識できない」体験:神経の専門家による脳卒中レポート』では、「自分の体がどこで終わり、どこから周りにあるものが始まっているか、境界までがわからなくなった。自分の腕の分子が壁の分子と混ざっている」という体験が報告されている]”